【番外編】我が家の年末・年始

はすぴーがガキの頃だった昭和40年代の我が家の年末年始はこんな感じだった。

 

大そうじ

「年内に済ませてしまおう」という日本人特有の気負いからかどこの家庭でも本格

的な大そうじをやったいた。

家中の畳を外にだして、パンパン叩いたり、滅多に掃除をしない縁の下、屋根、

天井裏まで家族総動員でやった。

とりわけ、障子貼りは好きだった。

普段、障子をやぶいてはいけないと言われているのに、この時にかぎって

「ビリビリにやぶいてもよい」と指令を受ける。

「どりゃ〜」といいながら、パンチで障子をやぶくのは快感であった。

かあちゃんはごはんつつぶを煮って「のり」を作り、刷毛を縦にして糊を塗った。

雨戸を外して掃除しているおとうちゃんは力強く頼もしくも思えた。

 

 

除夜の鐘

はすぴーが初めて除夜の鐘を聞いたのは小学5年生の時だ。

紅白歌合戦を家族全員でみているのだが、いつのまにか子供はコタツで寝てしまう。

コーヒーを飲むと眠くならないというので、初めてコーヒーを飲んだのもこの頃

だったと思う。砂糖をたっぷり入れたが、美味いものではなかった。

「もしも寝たら12時になったら絶対に起こしてくれ」と母にお願いして、案の定

紅白歌合戦で演歌が続く頃になると寝てしまう。

たぶん母は起こしてくれたのかも知れないが、爆睡していて全然記憶がない。

初めて「ごぉーーん」を聞いた時には少し大人に近づいた気分になった。

除夜の鐘は12時ちょうどになるもんだと思っていたが、12時前になっているの

を聞いてなんとなく「フライングぽくてズルイ」と思った。

ちなみに小柳ルミ子がCMをしていたのはヤクルト「ジョア」で除夜ではない。(寒)

 

お年玉

はすぴーの両親は兄弟が多いので、親戚周り=お年玉回収の等式が成り立っていた。

たいてい父親とふたりで親戚周りをしたのだが、父も

「いいか、1時間くらいたったら’お父ちゃんもう帰ろう’と言うんだぞ」と

子供のわがままのせいにする戦略をあみだしていた。

親戚のうち「築地の3階建てのおばさんち」は金持ちだった。

(当時、3階建ての家というのは非常に珍しい)

あの頃は1件あたり500円〜千円が相場だったと思うが、ここは3千円もくれた。

子供にとってお年玉の多い家は「いい親戚」で「いいおばさん」であった。

 

はすぴーには姉がいるのだが、「これはお姉ちゃんの分ね」とポチ袋を2つくれる

親戚がいたが、姉には「今年はあの家からもらえなかったよ」とうそをついて

ダブルインカムノーシスター作戦もよくしたもんだ。

あとで姉にばれて、自転車で轢かれたことがある。(普通轢くか?オイ)

総計1万円を達成するか否かがいつもボーダーラインであった。

今の子供のように銀行に預金をしたり、親にとりあげられるようなこともなく

獲得したお年玉は全部、自分のもので1年をかけて消化するか、ラジコンカーのよ

うな大物デラックスおもちゃを買ったりできた。

 

お雑煮

今では当り前のように1年中「餅」があるが、あの頃は正月だけの食べ物だった。

我が家のお雑煮は四角い餅を焼かずにそのまま入れて、鶏肉、白菜、さと芋、

かまぼこ、にんじん、ごぼう、、、色々と具が入っている醤油味ベースた。

父だけお雑煮に生たまごを入れた。(ちょっと変)

はすぴーがまだ小さい時、餅が喉にツマラナイにと、おかあちゃんは口の中で餅を

小さくちぎってくれてそれを口から「べーー」と出し、はすぴーのおわんの中に入

れてくれたことを覚えている。(今、思うと嫌だなぁ〜バッチイ)

 

大人になってから、よその家では餅を焼いてから雑煮を作るとか、餅は四角ではな

く丸いとか、具はシンプルがよいとか、みそ味ベースだの聞くが自分の中ではそれら

は邪道であり、おかあちゃんの作るお雑煮が一番うまい。

ちなみにカミさんの実家(愛媛県宇和島出身)では具は「かまぼこ」だけでえらく

驚いたことがある。

 

テレビ番組

言うまでもなく、当時は一家に1台しかテレビがなかった時代であり、

年末・年始は子供向けのものも多くてチャンネル争いの原因によくなった。

我が家では家族会議を開いて「テレビ番組表」を作った。

年末の夕方にはゴジラ・ガメラ・大魔人などの「怪獣もの」がよく放映されていた。

「今年の重大ニュース」はあの頃からやっていて、父は毎年「そうか、こんなこと

もあったよなぁ〜」とうなづいていた。

レコード大賞と同じ時間帯で12チャンネルでは「懐かしの思い出の歌」をやって

いて毎年のように父は「こっちの方を見たい」といい、レコタイを見ている姉と

言い争いになっていた。

でも、最近になってはすぴーも父の気持ちがわかるようになってきた。

 

当時の紅白歌合戦は長髪の男性歌手は出場できない時代であり、グループサウンズ

で出場したのは「ブルーコメッツ」だけであった。

多分、紅白に長髪男性歌手が出てきたのは1970年前後だと記憶している。

1970年にはフォーリーブスが初出場しているし、トワエモアも出ているので

この年が長髪OKのデビュー年度だったかも知れない。

(当時はそれほどの長髪ではなかったかも知れませんけど、、、)

でも、1968年にピンキラが出ているのでキラーズの中に長髪のメンバーがいたかも???

確実視されるのは、青い三角定規が1972年に「太陽がくれた季節」を

歌っているので、これは間違いなく長髪だったと思われるので、

はやり紅白に長髪男性歌手が出てきたのは1970年前後ということでしょう。

 

NHKでは商品名が出せないということで、山口百恵の「プレイバックPartU」に出てくる

「緑の中を走り抜けていく真っ赤なポルシェ」の「ポルシェ」を「車」に置き換えて歌うという

おマヌケなこともあったなぁ。。。

そういえば、紅白の同じ時間で、「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」なんていう

のもあったけど、我が家では見ていなかった。

 

「ゆく年くる年」はNHKを除いてどのチャンネルでも同じ画像であったのが妙に

うれしくてガチャガチャとチャンネルをまわして一番写りのいいチャンネルにする

贅沢なひと時であった。

そういえば、東京12チャンネルは「わが道」を行っていたなぁ〜。。。。

 

正月は「初笑い・・・・」とタイトルをつけた番組がほとんどで、林家三平(こぶ平の父)

「坊さんが二人で和尚がツー(お正月)」なんてしょーもない駄洒落で受けていた時代だ。

ちなみに我が家では「スターかくし芸大会」は毎年、見ていて東軍を応援していた

が「こんなの芸じゃない!」と母はたまに怒っていた。

 

初詣

我が家では元旦の朝、まずは歩いて3分のところにある「氷川神社」に初詣に行く。

小さな神社にもかかわらず町じゅうの人間が集まったのでないかと思われるくらい

の大勢がすでに行列をなしている。クラスで人気の「あの子」と出会った年は

「こりゃ〜正月から縁起がいいわい」と神様よりも女の子に感謝したもんだ。

その後、はすぴーの住む足立区には「西新井大師」という有名なお寺が

あり初詣のはしごをするのだが、姉が高校受験の際に、初詣のおみくじで「大凶」を

ひき、第一志望校に落ちたので、姉はいまだに西新井大師が好きでない。

(自分の頭の悪さをおみくじのせいにしている)

 

年賀状

今と違ってパソコンもプリンコごっこもない時代だったけど、手作りという点では

当時の方が素晴らしい。

版画で作ったもの、あぶりだし、下手な絵を画いたやつ、、、色々とあったが

シールをペタペタと貼るのが流行った年もあった。

はがきの中央に小さい字で「賀正」とだけ書いてある超手抜き野郎もいたが

今、こうして思い出すくらいインパクトがあったというわけだ。

ジョークのつもりで1円玉をセロテープでくっ付けて「お年玉だよーん」と書いて

出したことがあったが「現金を郵送するには、、、云々」とスタンプが押されて

戻ってきたことがある。

年賀状は年に一度の「ラブレターまがい」の行為が許されるものであり、謹賀新年

のどさくさにまぎれてローマ字で「SUKIDESU」なんて書いてもOKだった。

お年玉つき年賀ハガキで「もし当たったら半分返せよ」と書いてあるやつもいたが

あれはマジだったのかジョークだったのか真相を知りたい。。。

 

 

書初め

冬休みの宿題はたくさんはなかったけど、「書初め」を1月2日にしなくては

ならなかった。「富士山」「お正月」「いつも元気よく」「初日の出」「素直な気持ち」

「早春の光」「初心を貫く」なんて書いたことがある。

はすぴーは習字はめっちゃ下手くそであり、墨を磨ることさえ面倒だと思っていた。

提出した宿題は担任の先生から朱の墨汁でお手本を修正されて戻ってくるのだが、

姉にアウトソーシングした年は、先生から「宿題は自分でやりましょう」と朱の墨

汁で書いてあった。バレバレでやんの!

 

・・・お正月には凧上げて独楽を回して遊びましょ

♪もういくつ寝るとお正月、、、の歌にはこのようにあるけど、はすぴーがガキの頃

には独楽回しはしなかったし、羽根突きはほとんどせずにもっぱらバドミントンを

したけど、特別「お正月だから、、、」という遊びでもなかったなぁ。

凧上げはお正月の遊びだった。駄菓子屋に行くと3種類の凧が売っており、

■型のもの、◆型のもの、そして「やっこ凧」とグレードアップしていく。

やっぱり値段は高かったけど、一番大きくて偉そうな顔をしている「やっこさん」が

高く上がった。凧の足は普通、新聞紙かチラシで作るのだけど、足が1本だったり

2本だったり、工夫をしてみる。3本にしたこともあったけど、これはダメで、ものごと

「多けれゃいいちゅうもんではない」ということを凧の足をもって学習する。

凧糸をいくつもいくつも繋げて、本当に高く上げたことがある。あのまま上げたら

イスカンダル星まで行ったかもしれない。高く上がった凧はかなり重たい。

自分が白影忍者になったような気分になって「赤影どのぉぉ〜」と叫ぶのも凧上げの

醍醐味だ。。。んなわけねぇ〜だろ。

その後、「ゲリラカイト」という西洋凧が登場するが、あんなのは凧と呼びたくないぞ。

だってタコのくせに足がないんだもん。

 

今では元旦からスーパーやコンビニが営業しているが、当時は三が日はどんな店も

休みだった。ましてや駄菓子屋があいているはずはない、、、ということを付記して

おしまいとしよう。。。。



 あの頃のセピア色の想い出

TOPページ



【原稿:2000.12.28】