アンビリバボーな昭和のくらし(その3:自動車編)

そもそも男の子は「自動車」が好きだ。幼い頃には”マッハ号”や”バットマンカー”に憧れ、

スーパーカーブームの時には車のエンジンの音を聞いただけで、「む、これはガルウィングの

ランボルギーニ・カウンタックのエキゾーストノートだ」と消しゴムを握り締めた。

また「ランボルギーニ・ミウラで三浦海岸をドライブするぜぃ」と寒いギャグを飛ばし、

TVドラマ「ナイトライダー」を見ては「ナイト2000のような自分の言うことを理解してくれる

ハイテクな車がもうすぐ開発されそうだにゃ〜」と思ったりした。

大人になれば、東京モーターショーにでかけ、「おっおっ、スタイルいいなぁ〜、ナイスバディに

乗りたいなぁ〜」と実は新車ではなく、車のとなりで微笑んでいる美女にヨダレをたらすほど、

自動車が好きなのだ。デレデレ(^^ゞ

←ナイトライダー

さて、今回はアンビリバボーな昭和のくらし(その3:自動車編)として、

当時の車についての懐かしいアラカルトを綴ってみよう。

昭和30〜40年代の車といっても、現在のものとさほど大きな違いはない。あの頃の車はハンドル

が3つあったとか、車輪が10個あったとか、石炭が動力だったとか、ブレーキがたまにしか

利かないということはない。(当り前だぞ)もっともオート三輪という車はハンドルが座席の中央

にあり、オートバイのような3輪車はあったが、基本的な構造は現在とそう変わっていない。

 

基本的にはあまり変わっていないのだが、部分的に見ると今の若者には

アンビリバボーなのが今回のネタというわけだ。

 

【方向指示器】

当時の車の中には、方向指示器(ウィンカー)が、ライトで点滅するもの以外に実際に、指示器

がピョコーンを出るものがあった。形はネクタイの先っぽみたいなもので、長さは20センチ

くらいだったろうか?いわば「他人の関係」を歌う金井克子の”パッパパヤーパッ”の右手の

ようだと思って欲しい。(←はすぴー的には上手い説明なのだが、わからない人にはますます不明か)

この”パッパパヤーパッ”の金井アクション指示器が、「こちらに曲がりまーす」と教えてくれて

とてもプリティな感じでよかったのだが、いつのまにかなくなってしまった。

たぶん昭和40年代の前半まで”パッパパヤーパッ”はあったような気がする。

方向指示器といえば、現在のものはオレンジ色の点滅と法令で決まっているようだが、当時

ブレーキライトと代用している車とあった。(ブルーバード510やハコスカがそうだった)

つまりブレーキの赤いライトが”右に曲がりまーす”を代用するので、ブレーキを踏みながら

方向指示器をつけた場合、どっちに曲がるのか明確ではなかった。(危ねぇ〜じゃないか)

 

【三角窓】

       

「カークーラー」が一般的になったのは、昭和50年代に入ってからだと思う。

それ以前の自動車には「カークーラー」がなかったので、夏はむちゃくちゃ暑かった。

事実、はすぴーの父は車をサウナとしても活用していたのだから。(笑)

夏は大汗をかきながら、すべての窓を全開にして走るのだが、少しでも外気を取り入れるために

「三角窓」という小さな三角形の窓が運転席の前の方についていた。三角窓を開けると風の音が

うるさいという理由と口の中に虫が入るというデメリットがあったので、不評だったらしい。

いすず177クーペ”が最近まで三角窓を採用していたと思う。(最近といっても20年くらい前かな)

 

はすぴーが最初に自分の車を所有したのは、今から23年前の秋、中古のカローラである。

ボディの色は「サファリグリーン」といったが、友人からは「うんこ色」と揶揄された。(泣)

「Hi-Delax」というエンブレムがついていたわりには、ちっともデラックスではなく、

エアコンはもとより、パワステ(パワーステアリング)も、パワーウィンドウも、タコメーターも、

間欠ワイパーも、FMラジオさえもついてなかった。パワステのついてない車を運転した

人はご存知だろうが、ハンドルを切ることが重たいのだ。

だから腕力のない女性は車の運転が下手だとも言われていた。力なくして自動車を乗れないのだ。

(ちょっと大袈裟かな)だから初めてパワステ付きの車を運転した時には、手応えがなく必要

以上にハンドルを回してしまったりする。(おっとと、、)

ちなみにカローラHi-Delaxはカーオーディオ、FMラジオはついてなかったが、AMラジオは付いて

おり、スイッチを入れるとボンネットにあるロッドアンテナがバネで”シャキン!”と

飛び出る仕組みが意外とカッチョよかった。(^_^)v しまう時には外から押し込むんだけど、、

そういえば、エアコンがなかったので、雨の日にはフロントガラスや窓ガラスはすぐに曇ってしまう。

「クリンビュー」という泡状のスプレーを塗ってから出発するのだ。

「ルビーの指輪」の替え歌で”♪くーもーりーガラスにクリンビュー、、、という歌を歌いながら

窓を拭いたら助手席の彼女(今のカミさん)が妙にうけてくれたことも懐かしい。

 

 

【トルコン車】

現在では、オートマチック車が一般的だが、20年前はまだ「マニュアル車」の方が多く、

オートマ仕様の車を「トルコン車」と呼んでいた。トルコンはトルクコンバーターの略で

エンジンの回転をミッションに伝える部分で、マニュアル車のクラッチにあたる部分を

トルコンと言う。(ちなみに映画「ネバーエンディングストーリー」に出てきたのはファルコン。。寒)

トルコン車は燃費が悪かったので、この非経済的な車を乗ることは、ちょっとした金持ち

というイメージが当時にはあった。

ギアチェンジをいちいち行うマニュアル車は、渋滞中にクラッチを踏む作業が面倒だった。

特に尿意を催し、我慢している時にクラッチを踏むことは、腹部を圧迫するので、地獄の苦しみ

といっても言い過ぎではない。(例によってカローラHi-Delaxはクラッチも重たかった)

いつだったか、明治通り(←東京の人にしかわからんちゅーの!)を走っていた時、小便を我慢

できずに、目白小学校の校庭にカローラHi-Delaxを突入させて、校舎の職員用便所に飛び込んだ

のは、この私ですぅ。その節は大変にお世話になりました<(_ _)> → 目白小学校校長殿

 

 

【フェンダーミラー】

「ドアミラー」は約20年まで規制があり、禁止されていたと聞いたことがある。

それまではフェンダーミラーといい、(今でもタクシーでみかけるやつ)車の前方についていた。

機能的にはこちらの方が優れていると思うのだが、デザインの面からドアミラーに人気が

移ったと思われる。またミラーの角度調整は今なら運転席に乗ったまま、リモコンで操作する

ことができるが、当時の車にはそんなものはなく、何度も乗り降りをして微調整をした。

そういえば父が車で出かける際にミラーを調整するのに、家の中の母を呼び出し手のひらを使って、

もっと右だいや動かしすぎだのと夫婦でミラーの角度調整していたことも、はすぴーにはなんとなく

くすぐったいが和やかな想い出だったりする。

父から聞いた話だが、昭和30年前半の車はこの画像のようにフェンダーミラーもなく

車内中央のミラーだけだったらしい。フェンダーミラーが装着された当時

これを使って車線変更することは相当恐ろしかったらしい。

 

【ターボVSツインカム】

昭和50年代後半くらいだと、「ターボーチャージャーエンジン」が流行りだした頃だ。

最初はスポーツカーや高級車だけであったが、ターボを搭載するとむちゃくちゃ速いらしいぞ

といううわさが先行し、次第に大衆車あるいは軽自動車にまでターボーエンジンがつき、

猫も杓子も”ターボー、ターボー、ターボー”で、自動車業界全体がターボー付き

でなければ車であらずといったムードであり、ヤンボーマーボー天気予報、

ターボー全開でみんなのター坊、ハタ坊だジョー、立つんだジョー、

元アイドルの豊川誕、、という時代であった。(意味不明)

カムシャフトが2つある「ツインカムエンジン」はターボに押され気味だったので、よく

雑誌なとで”ターボVSツインカム特集”をもうけ、ツインカムの優秀さをピーアールしていた。

マツダはひとりで「ロータリーエンジン」を掲げた。(ロリータじゃないぞ)

”百恵の赤い靴”のキャッチコピーはターセルだったかな?

 

 

【押しがけ/クランクスタート】

はすぴーの父の話では、昭和30年代の車のバッテリーが根性がなくとにかく非力だったらしい。

父は冬の朝、出かける際に寒さでバッテリーが上がってしまい、お湯をかけてバッテリーを

温めたそうだ。こうするとバッテリーが活性化してエンジンがかかるらしい。

(うーむ、カップラーメンのようだ)

また冬の雨の日の夜にヒーターをつけ、ワイパーを動かし、ヘッドライトを点灯し、さらにラジオ

でもつけようなら、すぐにバッテリーがあがってしまったそうだ。

昭和40年代前半の頃まで「クランク」という道具があり、車体の前部バンパーの下側あたりに

これを差込み、グルグルまわしてエンジンをかけることもできたのだ。これを通称「クランク

スタート」といい、古い映画でもこのシーンはよく出てくるので、知っている人も多いだろう。

さらに「押しがけ」という方法もあり、これは車自身を後ろから2〜3人で押し、運転手はギアを

セカンドに入れ、勢いがついたらクラッチを入れることで、エンジンを無理矢理動かそうとする

方法である。(はすぴーもバイクでならよくやりました)押しがけはオートマ車ではできませんよ。

 

 

【タイヤチューブの浮き輪】

もしかしたら、これは我が家だけのことかも知れないが、タイヤのチューブを「浮き輪」の

代わりに使っていた。黒色でゴムの臭いがして、空気を入れるバルブの部分が体に当たり邪魔だった。

普通の浮き輪の2倍くらいあり、上に立つこともできたのだが、やっぱりオバQやパーマンの

漫画の描いた普通の浮き輪が羨ましかったなぁ〜、、、

 

【フロントガラスに縦ライン】

下の写真のように昭和30年代前半の車は、フロントガラスの中央に「敷居」というか

「枠」があったので、縦にラインが入っているかのように見える。

たぶんガラスを補強するためのものであったと思われる。

その後、空気抵抗を減らすためにフロントガラスを平らなものから曲線形のものに

なり、現在に至ったのではないだろうか。(憶測です)

 

 

【普通免許でオマケ付き】

はすぴーの父親の世代、つまり既に還暦を過ぎている年齢の人たちは、当時

普通免許を取得すれば、「オマケ」として大型車の免許や限定解除の自動二輪の

免許まで付いてきたのだ。現在でいう「原チャリ免許」がオマケでつくようなものだ。

だから、はすぴーの父はダンプだって、ハーレーダビットソンだって乗れる資格が

「オマケ」で持っているというわけだ。

 

【急な坂道は一旦、降りる】

庶民が自家用車を手に入れられるようになったきっかけの車として、昭和33年発売の

「スバル360」(通称:てんとう虫)の存在は大きかったそうだ。

(今年の春にNHK「プロジェクトX」でやってました)

360ccのエンジンで4人乗りということが、はすぴーにはアンビリバボーなのだ。

ちょうど50ccの原チャリに小錦が乗っているようなものだろう。(ドスコイ)

急な坂道になるとトルクは落ち込み、4人で乗っていた場合、2人が降りたなんて

話を聞いたことがあるが、その真実は定かではない。

スバル360

マツダR360
 

 

【オーバーヒート】

昭和50年代の頃まで、道端に「エンコ」(←この言葉も死語)している車を見かけることが

多かったが、最近はほとんど「エンコ」や「牽引」の様子を見なくなくなった。

動かなくなった車はだいたいエンジンルームから煙を出していて「オーバーヒート」しているのだ。

エンジンはラジエーターと呼ばれる水冷式の部品で冷やされるのだが、このラジエーターの水が

減ったり、ゴミが詰まるなどしてエンジンが暖まりすぎるとオーバーヒートとなり、エンコして

しまうのだ。したがって真夏にこの現象に陥りやすい。

ウソみたいな話だが、エンジンルームから少しでも熱を逃がすために、真夏にヒーターを入れ、

車内をサウナ化したなんて話もよくある。まさにアンビリーバボー!!(>_<)

夏といえば、学生時代に車で千葉の九十九里に行った時に砂浜にまで降りていったことがある。

そしたら案の定、砂に車輪が埋まってしまい、もがけばもがくほど砂浜に埋まってしまった。

それを見ていた海の家のおっさんは、海水をバケツに汲くんで埋まっている箇所の砂に海水をかけ、

タイヤの空気を抜き始めた。おいおい、何すんねんと思ったが、この方法で砂地獄から脱出できた

ので、最後に紹介しておくことにしよう。(そんなアホはお前だけだちゅーの!)

 

 

以上、思いつくまま昭和のあの頃の自動車についてアンビリバボーな想い出を書いてみたが、

車も改良されてきたもんだと改めて思う。特に「カーナビ」に至っては、コンピューターが

「次の交差点を左折してください。目的地まであと10分です」としゃべるなんて、昭和30年代

ではSFの世界だったもんなぁ〜。ちなみにはすぴーのボロ車にもカーナビは装備されている。

助手席に座っている「かーちゃんナビゲーター」略して”カーナビ”と呼んでいるのだ。

はすぴーが生きているうちに、「流星号」のような自動操縦可能な車に乗ってみたい。。。

 

古い自動車関係のお薦めサイト

・トヨタ博物館    ・戦後50年:クルマ史     ・コロナRT40

(原稿:2001.9.15)

 

アンビリーバボーな昭和のくらし(その1)  (その2)  (その4)

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あの頃のセピア色の想い出

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